昭和49年03月25日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方の事を、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とはここに神が生まれると言う事で、此方がおかげの受け始めである。皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ。」

 昨日、昨日一昨日、私の方の栄四郎が今度学院に入ります。その為に小倉の教務所で、それ前のまぁちょっとテストというですか、試験の様な事があったり面接して、本人の願いとか希望を。又心構えと言った様なものを、聞かれたりまたお話を頂いたりするために、一日小倉へ丁度霊祭の日でした行っております。その晩遅く帰って来とりましたから、会えませんでした。昨日の朝ここへあのう控えておる時に聞いたんですけれども、まあどう言う事を、まぁちょっと簡単な試験の様な物があるんです。
 「どう言う事があったか」と言うて聞きましたら、お道の教師を志すと云う、どう言う訳で、どう言う理由でお道の教師を志すかと云う様な質問を書いて出さなければならなかった。その回答をしておる事を一人一人面接があって、色々注意を受けたり、色々あるんだそうです「僕はえらい喧しく言われた」と言うのです「どう言う訳でそんなに喧しく言われたのか」と聞いた。道の教師になると言う事はね、答案用紙に書いておる事が。教会に生まれ教会に育ったから教師になる事はもう宿命付けられておる。
 運命だと。だからその運命を生かす為にお道の教師を志した。と書いた。次に学院に行くのは教師としての取次者としてのテクニックを習得する為だと書いた。それがえらい喧しく言われた。「テクニックとは何か」「運命を生かすと言う事は何か」と言うて、いろいろ言われたと云う訳なんです。もう少し、言うなら、言わば世の中の難儀な氏子が取次ぎ助けられる事の、いわば為のお道の教師を志した。とかなんかそう言う風に言えば良かった訳ですね。
 けどもその教会に生まれて教会に育ったんだから、運命だとだから仕方なしに教師になるのかと云う訳なんですよ。その教務所の方では、勿論仕方なしに、けども折角仕方なしにでもそういう宿命的に、お道の教師にならなければならんのだから、その運命を生かす為の精進をするんだと言いたかったんでしょうねえ栄四郎は。それから取次者としてのテクニックを習得する為だと偉そうな事を言ってる訳なんです。
 私はまた例えばお道の教師、御取次をさして頂くと言う事がです、ただその取次者としてのテクニックというか要領と言った様な事だけで人が助かるとは思われないです。お話が大変上手であるとか、なかなかとんちの良い御取次が出来てと言う様な事、その証拠にはなら全然お話の出来ない。お話はいよいよ苦手中の苦手と言った様な先生の所でも、どんどん人が助かっておるという事実がある。問題はそのやはり自分自身が助かり、いわゆる神様のご信用を受けると云う所から助けなさるのは神様なんです。
 取次者が助けるのじゃない。ただ取次がせて頂く御用をさしてもらうだけであって、おかげは天地の親神様が下さるのである。それで天地の親神様のご信用を受けると言う事が取次者としては、一番要点であり大事な所だと言う訳です。私は思いますのに、今度秋永先生が、七日の御大祭の前夜の六日の日に、信徒の集会が前の日の晩に御座います。そこでお話をされる事になった。
 その話の芯というか内容が「お役に立ちたい」と言う事である。私はそれ以来お役に立つと言う事は、果たして一体どんな事だろうかと、もうしきりにその事を思わしてもらう。本当にお役に立つと言う事、お役に立たせて下さいとか、お役に立ちたい立ちたいの一念を燃やすとかとこう言いますけれども、ならお役に立つと言う事はどう言う事かと。私は本当のお役に立つと言う事はです、不成熟じゃないけれども、私はお道の教師になる事だと思うんですね。
 終生変わらん言うならば一生をいわゆる私と云う物を空しゅうして神様へ捧げてしまうと言うのですから。あれは佐藤四九郎のお詩でしたでしょうか[靴なくば、裸足で歩け道のため飢えて飢えざる糧作りつつ]と言う詩があります。道の為言うなら人が助かる事の為ならばです、もうそれこそ靴が無いなら裸足で、食物が無いなら食べない。と言う様な一心の覚悟を持ってなされなければならないと言う事でしょうけれども。
 そう言う気になりゃ靴も与えられ、そう言う気になれば、飢えて飢えざる糧と云う物は、もう無尽蔵に与えられる物だと言う意味。その為にはもう決心が大事だと言う事で御座いましょう。ですからただご信者さんが金光大神の御取次を頂いておかげを頂くと言う事とは、根本的に違う様に思う。最近では信奉者のすべてが総取次者と言った様な言葉を以てされますけれども、なら矢張り信者には信者の道、取次者には取次者のいわゆる生き方と云う物があって。
 そこでなら御信者の皆さんとしては、その取次者の手になり足になると云う事が、私はお役に立つと云う事だと思うんです。おかげを頂いとるけんどんどんお供えが出来る。一生懸命御用もさしてもらう。是はねおかげを受けておると云う事実を自分が感じるからそうするのですから、大してお役に立ちよると云う事ではないのです。甘木の初代が段々おかげを頂いて御用もどんどん出来る様になられた方が、まあ言うなら大きな顔をしておられた訳でしょう。
 それでまあおっしゃられたという言葉の中に「○○さん、あんたが受けておるおかげば、神様は、目録をね、差し引き計算書を一つ出してもらおうかな」と仰ったそうです。いくら御用頂きよります、いくらお供えが出来よりますと言うても、おかげを頂いておるから出来ておるのです。だからそう云うのは、大してお役に立っておると云う事じゃないと言う。まあだそれでも足りんのだ。まあだそれでも、言うなら差し引き計算をしたら、神様の方へうんと借りがある位だと云う事。
 言うなら神様にご迷惑をかけておる方が多いんだと云う事。だからそういうぎりぎりの所から、御用とかお役に立つと言った様な問題を検討して参りますと、お役に立つと云う事は大変に難しい事だなあと思います。それで結局本当にお役に立つと云う事はお道の教師になる以外にないと云う様な厳しい事になる訳です。お道の教師を志すからにはもう兎に角一生を神様に捧げると言う一札を入れなければお道の教師にはなられない。
 果たしてそれ程しの教師がおるかというと、実を言うたらまあほんに僅かな事で御座いましょうけど、いわゆる取次者精神です。此方の事を神神と言うが皆もその様なおかげが受けられる内容は確かに持っておりましょう。先日から頂きますあのう『人力に見切りを付けて神力にすがれ人力自ずから湧く』と云う様なもう限りなく湧いて来る力というか、そういう力を例えば受けると言う事は言うならば、人力に見切りを付けなければならない。もう一生あなたに任せ切ってしまわなければならない。
 靴が無いなら靴も履かん。食物が無いなら食べません。そう云う生き方の中から言わば、飢えて飢えざる糧作りつつとは力を受けながら、お徳を受けながらその道をただ進ませて頂くと云う訳なんです。そこでならそこまでは出来ないに致しましてもです、言うならば取次者の手になり足にならせて頂こうと云うのでなからなきゃならんが、果たして取次者の手になっておるだろうか足になっておるだろうか。
 却って取次者におんぶしておる様な事はかろうか、ぶら下がっておる様な事はなかろうかと云う事になるんです。そうすると取次者に重荷をかけておるだけであって、大してお役に立っとらん。けれども其処ん所がです、一度本当にお役に立ちたいという念願を言わば燃やさして頂く所から、初めてあの人がおってくれるからと頼られる信者氏子に、お取り立てが頂ける訳です。
 もう二十数年も前だったでしょうか、高芝さんが頂かれた、椛目の時代に頂かれた御理解の中に、「好かれとると思いなさんな、頼られとると思え」と云う様な御理解を頂かれた事がある。親先生が「高芝さん高芝さん」と言いよるけん、親先生が好いて御座る。俺は好かれとるからこうと云う様な事ではなくて、頼られておる。なら自分が果たして、頼られがたの値打ちがある人間か、頼られるだけの事が出来ておるか、是はもう本当にお役に立ちたいというお役に立ちたい。
 昨日も伊万里の竹内先生の所のお祖母ちゃんの一年の式年祭でした。御親戚の方達が三十何名、八幡それから津久見辺りからの御親戚の方達等が皆見えて、本当にもうそれこそ、御親戚の勢揃いと言った様な感じに、お祖母ちゃんの御信心の恩恵を受けた方達ばっかりの集いである。あのうお参りである中にはお道の教師にもお取り立て頂いておるお孫さんも見えておられます。ご承知の様に竹内先生はあの様に伊万里の市長さんとしてのおかげを頂いておられる。
 昨日御直会の席でご夫婦が立ってから、親戚の方にご挨拶されました。その御挨拶の中に。もう今年が市長の改選の年にあたる。私共がこの頃市庁舎を見学にやらせて頂いた時に、車の中で話しておられたが「親先生まあ言うなら一番私の、市長戦なら市長戦の立候補に対して邪魔をして来た共産党がいの一番に、今年はもう出馬しないという声明を致しました。あとは社会党の何がありますけれども」と言うお話で御座いましたが、昨日その前日、社会党の立候補されると云う筈の人が見えて。
 「出馬しない。」と云う事を言って見えられた。それで先生もその事で挨拶かたがたそこに行かれたそうです。そしたら信心も無い何にも無い人ですけれども、先生こう云う事をその人が言われました。「市長さん、今度の私が出馬しないのはね、成り行きがこうさせました」と仰ったそうです。もうそれを聞いてから、もう本当に、それこそ親の信心の余徳というか、親先生の御取次の働きというか。
 今度の出馬の事に付いてお伺いさして頂いた時に、親先生は「金銀の水引を頂くから、今度また続けておかげを頂く様に」と云う事であったが。もう最高の神様がのしを付けて下さる様な、いや、のしを付けて下さるおかげと云うよりも、神様が頼んで御座ると言う感じ、どうぞ市長伊万里の市がね、いわゆる和賀心時代を創って行く一つのモデル市になるくらいなね、それには他の者では出来ん。やはり竹内市長でなかったら出来ないと言って下さる様な物を感じる。その事も昨日言っておられました。
 親先生からそう云うこれから突飛な人が出馬しない限り、無投票でおかげを頂く物で御座いますと云う事を、皆さんにも御挨拶になっておりました。ですからそのお祖母ちゃんの御信心がどういう信心をなさったかと幾人ものお子さん、息子さんは竹内先生だけですけれども、それぞれにずっとお父さんという方が、しばらく外へ行っておられましたから、まあ言うならばもう女手一つでまぁ子供たちを育てられたと云う訳です。大変気性もああ云う様なお方でしたが。
 もうとにかく子供達の一人一人が神様のお役に立ちます、お役に立つ様な氏子にお取り立て下さいと云うのが、お婆ちゃんの信心の中心であった。だから自分自身もお役に立ちたいと思うけれども、お役に立とうと思うても、それこそ条件恩恵が足らわなければ出来ない。けれども自分で今出来る事は、お裁縫をなさっておられます。だから年二回の春秋の大祭にお参りになる時には、沢山の雑巾を縫い蓄めてそれを献納された。
 度々今はあまり雑巾はいらんでしょうけれども、その時分には雑巾が沢山要った訳です。だから是がうちが儲けでぇたならお役に立とうとか、是が出来たらと云うのではなくて、もう現在自分のなら、健康を頂いておるなら頂いておる健康で、何か技術を持っておるならその頂いておる技術でお役に立たせて頂く。それにはもう条件はない。ただお役に立ちたいの一念が、そう云う事になる。
 そして願いとしては子供たちが世のお役に立ち、人のお役に立ち神様に喜んで頂く様な氏子にお取り立て下さいと云うのが、おやの子に対する願いである。それに引き替えて私共の信心を振り返ってみなければならんのですけれども、成程おかげを頂いておるから、お参りもしておる。お供えも言わばしておるけれども。お役に立ちたいの一念がその様なふうに現われておる。こげな御用すればおかげが頂ける。もうおかげと云う物が前にぶら下がっておる。そのおかげと言うてもです。
 ただ病気が治る様にとか、商売が繁盛する様にと云う様なおかげを頂く事の為の言うならば御用であるならば、それは御用が御用でない。私は本当にお互いにです。本当にお役に立つ信心と云う事を本気で願わなければならない。実感はないでもやはりお役に立つ信心を頂かして下さいという、例えばなら子供達やら孫達の上の事もです。是はもう実感はなくても、私共の婆でもそうでした。
 婆が御祈念致します時には、御祈念の言葉を言葉に出してから、横で一緒にこうやって御祈念しよりますよね。分け解らん子供たちが横で御祈念しよる。それにばばが言うておりました唱えておりました言葉の中に「どうぞ大坪総一郎が、大坪総一郎が」と言うて何遍も私の名前を唱えました。弟の名前も妹の名前も唱えます。「どうぞ大坪総一郎が、大坪総一郎が、あなたのお役に立つ氏子にお育て下さい。神様から喜ばれる様な氏子にお取り立て下さい」是はもう私の耳にこびり付いとるです。
 子供心に。ただおかげを頂く為にです。一生懸命拝みよります。御用しよりますと云うのは、それは本当の言うならば、御用にお役に立っている時ではありません。ひょっとすると、取次者の手に足にならんのに、手をもいだり足をもいだりする様な事にしかなってない様に、お邪魔にしかならないかも解りません。そこで私こそ神様の金光大神様の言うならばお邪魔になっておる様な、おかげは受けとりますけどその程度の信者ではなかろうかと判らせて頂いた所からです。
 是ではならんと言う心が生まれて来る。そして言うならば、祈らせて頂く中にでもです。お役に立ちたい、お役に使うて下さい。本当のお役に使って下さい。為には五つの願いが成就する。せねばならない。と言ってお願いする。いや成就しなければお役に立たんかと云うとそうではない。なら成程大きなお役に立ちたいという願いは持っておるけれども、なら今はお役に立てないかと云うと、そうではない。
 それこそ雑巾の一枚でもお役に使うて頂きたいと、それを縫い蓄めて御本部に奉納された。竹内のおお婆ちゃんのその生き方と云う物がです。改めて見直され聞き直されさせてもろうて私共の信心にそれを頂いて行かねばいけないと思うです。最近秋永先生この前の十三日会の時でしたか発表しておられます様に何か此頃はしきりにお役に立ちたいと云う念が燃えてくる。言うならば合楽が二十数年になりましょうけれども。
 まあ言うなら私の手となり足となりして下さったと言うなら、まあ合楽の第一人者でありましょう。だからお役に立って来たのだけれども、それで良いと云う事ではない。今度は本当な意味において、お役に立ちたい。もう是は、まだ私があちらこちらにお話に行っている時分に小倉の御記念祭がありました時に、何か私は一般に敬遠されていた時でしたけれども、その時のお参りを秋永さん一家、秋永のお祖母ちゃんと文男さん、それから秋永先生と私と四人で、小倉にお参りした事がある。
 そしてお祭りの後で、熱心であったなと思うのですけども、また奥城に出てお礼させてもろうた。その時に秋永先生たち兄弟の事を頂いたのですけど、将来は袴を着けてお話をして回る。そういう御用に使うと言う意味の事を頂いた。そしたらやっぱり、それこそ袴こそ着けておらんけどですね。まあどこの共励会も言うなら文男さんが、どこの何といえば秋永先生が、おかげ、御用さして頂く事によって、みなも大変喜ばれると言った様な、合楽ではそういう存在である。
 その秋永先生が、最近は、お役に立ちたいと云う一念が燃えてきた。そこで今度のお話も、そこを通して皆さんにお話を聞いて頂こうということになりましたがです。そのお役に立ちたいと言う、そのと云う事をいよいよ検討した。ただお参りが出来よる。お供えが出来よる事で、お役に立ちよると云う事ではない。ひょっとするとお邪魔になっとるかもしれないと云う事です。だからお役には立たんでも、お邪魔に話乱という信心がなからなければです。お役に立ちたいの一念を燃やす事だと思うです。
 私は是は厳密に言うとです。なら御神徳を受けられたと言う様な先生金光教の百年の歴史を振り返って見てです。そういう御神徳を受けられたという方には信者の中にはない様ですね。やっぱり本当の意味においての私はお役に立つと云う事はお道の教師になる事だと、ただなっただけじゃいけん。今申します様に本当に人力に見切りを付けて神力に縋り限りない人力と云う物が自ずから湧いて来る。だから皆さんが願わなければならん事はです。どうぞ子供が孫があなたのお役に立ちますようにというその内容を。
 私の一門眷族から一人なりとんお道の教師にお取り立て下さいと、いうくらいな願いは、本当にお陰を頂いてもですね。それからの御道の教師にお取立てを頂いて、難儀な氏子が取次ぎ助けられる本当に助けられる、限りない力を身に付けれる程しの、勿論先生でなければならない。栄四郎じゃないけれども、ただ取次者としてのテクニックを身に付けるだけでは駄目。それは宿命的にお道の教師にならなければならないと言うとだからその運命を本当に生かして行く為に。
 良い取次者にならして頂くと云う事は自分自身が生神を目指す、自分が助かると云う事に精進しなければならないけれどもです。そこでならまあその手前の所で頂くならば、その取次者の本気でお役に立ちたいと云う事は、取次者の本気で手になり足になりする事だと云う事、其処ん所に焦点を置かなければならない。そんな事を今朝御祈念中に思わして頂きよりましたら『無法松』と頂きました。
 小倉の無法松というあれがあります。人力車引きがおったという話がありますでしょう。あの人が何て言ったかね吉岡かね、吉岡と言う兵隊さんのお家の奥さんと子供たちの為に一生を捧げる。亡くなられた時には、その吉岡の一人息子である、息子さんの名前で自分の働き全部の貯金を吉岡の子供の名前にしてあったと云う事です。あなた方が、どれ程しの財産を頂いてもです。
 その財産の言うならば、貯金通帳なら貯金通帳が、神様の御物として神様の名前で預金しておれる様な、神様がいると仰れば、何時でも自分の全財産にのしを付けさしてもらえる位な、私は信心がいるのじゃないだろうか。少しばかり儲けだすともうそれこそ反対に御用も出来ん、お参りも出来んごとなって来る。そういうケチな信心では、今日の御理解のそれには当たりません。
 私は信者として本当に力を受けるというのは、おかげを受ける事だと思うですけれど、その頂いたおかげがです。私視されないだけ位な私し信心はお互い頂かなければいけんと思います。言うなら精神の切り替えをしなければいけん。思い方の切り替えをしなければいけん。お役に立ちたい一念が修行にもなって来ると言う様おかげを頂いたら、ちっとおかで頂いたらもう信心がお留守になると言った様な事ではないと思います。
 今日はえらい角度を違えて、この十八節を頂きました。皆もその様な生神にならせてもらえれる様なおかげを頂くか、それは矢張り取次、金光大神の手代わりが出来る位な、信心をさせてもらうと云う事。手代わり所か却ってお邪魔になる様な信心者で一生終わったんではです。それこそ神様から差し引き計算書を出されたら、沢山な神様に借金なっておったと言う様な事ではつまりませんからね。
   どうぞ。